活動日誌−東奔西走

【11.07.09】震災復興への努力が続く被災地へ

支援物資を積み込んで震災ボランティアにいってきました

   7月5日〜8日まで岩倉市の日本共産党議員団など5人で宮城県の亘理町にボランティアに参加してきました。
5日は、朝7時にみなさんから頂いたお米やジャガイモ、タオル、衣類、学用品、うちわなど車いっぱいの支援物資を積み込んで岩倉を出発。福島県国見インターで高速を降り、相馬港付近へ。5月に来た岩倉の横江議員の話では「当時に比べるとかたづいてきている」ということでしたが、依然として津波のもたらした残骸は残り、人の暮らしを破壊し何もなくなってしまった街の様子に愕然としました。
 4か月たった今でも畑に船が打ち上げられたままになっていました。
日本共産党のボランティアセンターは柴田町にあり、党員の好意で一軒家を借りてみんなが寝泊まりし、自活を原則に、交流を深めながら活動を行っています。
 私たちが参加した日は、犬山や豊橋、尾南を始め静岡から参加の人たち総勢40人にもなり、さすが入りきれず、女性陣は1時間も離れた蔵王の入口にある別荘に泊まることに。ここもボランティアのために快く貸していただけているとのこと。とわいえ11人ほどが雑魚寝の状態でしたが、夜は涼しく、朝は鶯の声で目を覚ましました。。

 

 

イチゴハウスの草取りとヘドロの除去作業に汗を流す。

 いよいよ2日目は作業開始。亘理町のイチゴ農家のAさんのいちご畑に行って、津波によって海水が入り込み、かたいヘドロの層ができてしまったところを、伸びてきている草を取り、下にある良い土を取り込まないよう丁寧に作業をおこないます。
 20人ほどで2列のハウスをやりあげました。このような作業は市のボランティアセンターなどでは認めていないということで日本共産党の活動が歓迎されているとのこと。この日は、私たちを含め3組に分かれて3軒の農家のイチゴハウスの泥出しに汗を流しました。  

2〜3cmほどのこのヘドロの塊を取り除くと丹精込めたさらさらの土が出てきます。  

  ヘドロが取り除かれたハウス

みなさんの思いのこもった支援物資をお渡しすることができました。

   3日目の午前中は、昨日やり残したもう1列のハウスの草取りと泥出しに取り組む。
午後は、引き続き農作業に精を出すグループと、仮設住宅へ行って預かってきた支援物資を届ける組に分かれての活動です。
 亘理町の95戸の仮設住宅の集会所前に大きなシートを広げ、お米3kg入80袋や、玉ねぎ、じゃがいもなどの食料品、タオルや紙おむつ、食器などの生活用品などを所狭しと並べ、地元のまりこ町会議員がマイクでお知らせをすると多くの方が出かけてきてくださり、30分ほどで用意した品物が無くなりました。
 暑くなって夏掛けや、タオルケットが喜ばれましたが数が少なく残念でした。またどこも引き受けてもらえなかったという子供用の服や文房具類も喜んでいただきました。
 「応援しています」とメッセージを書いたうちわも持って行き、好評でしたが、実際の生活は「仮説住宅は本当に暑いんです! クーラーがあってもお金がかかるからつけられません」と訴えられました。、
 

 高速道路の向こう側の惨状

   3日目の夜、地元の方が、私たちのために食事の支度に来てくださっていました。お話を聞くと、支援物資を届けに行った仮設住宅に入っておられるとのこと。私たちが行ったイチゴ農家も津波によって50cmほど床上浸水していましたが、高速道路によって大きな波は止まって家なども残っている状態でした。「帰る前に高速道路の向こうにも行ってください。私の家は土台だけ残してすべてなくなってしまいました。」と言われ、4日目の朝、高速道路の下をくぐりました。まさに景色は一変しました。相馬港と同じように破壊されつくした光景が飛び込んできます。

   震災から4カ月たち、同じ県、同じ町の中で地域によって大きな差が生まれていることを強く感じました。海側から離れた地域では、外からの見かけだけかもしれませんが、経済活動も元に戻りつつあるように思います。
しかし一方で今も避難所での生活や、仮設での不自由な生活ライツ抜け出すことができるか展望も見えてこない人々がたくさんいるこの現実をどう打開したらよいのか、考えてしまいました。
 迅速で柔軟な対応が求められます。
本当に短い日程で申し訳ない思いをしましたが、それでも時間があれば「少しの時間でも出かけていってほしいと思います。( 森 ケイ子記 )

  子どものいない小学校

▲ このページの先頭にもどる